一握りの
日々は我慢と寛容と憎しみと一握りの愛で成り立っている。
同じものを食べ、同じ場所で呼吸をし、眠り、繰り返しつかうお箸、コップ、歯ブラシ、石鹸、カミソリ、耳掻き、爪切り、ボールペン、ファイル、印鑑、セーターやシャツや靴下。見たい番組、聴きたい音楽、出かけたい場所。帰ってくる場所。
一握りの愛は、これを捨ててしまえばもう何もかもが終わるよ、と常にささやく。しかも甘く。
日々は、私が眼を背けて生きるものばかりに囲まれている。
どうしたって勝てるわけなかったんだ。
馬鹿だなぁ。
ユークが鍋を作ってくれた。
「おいしい日本酒と食べよう」
と冷蔵庫から日本酒を取り出す。
考えるとわからなくなるから考えない。
冷たいとろりとした液体を喉に流しこむ。
「おいしい」
懐かしい声をきいた気がした。
大事なこと
やけに言葉が胸に刺さる。
大事なものは大事にしなければいけないんだって、そんなのは当たり前のことなのに、耳たぶに新しくひとつ開いた穴が痛むので、まるでとてつもなく難しいことを宿題に出されたような気になってしまう。
その病院ではヘリックスは開けていないと言われたので、耳たぶの出来るだけ上の方に、とサインペンで印をつけた。
「もし印をつけ直したかったら、これで拭き取ってください」
と渡されたアルコール脱脂綿は使わなかった。
印をつけ直すことは出来ないなぁ。
友達のお母さんが持たせてくれたトマトは皮がぱつっとしていて緑のいい匂いがして、綺麗だ。
「トマトが美味しい」
と口に出して言ってみる。大事なことだ。
猫たちが振り返る。
骨も肉も
帰る場所を少しずつどこにもなくしている、というのがその時私が感じているたったひとつのことだった。
それに気がついてはいたけれど、私は何もしなかった。そのまま緊張がピークに達した時、曖昧さが人も自分も傷つけて全部をざらりざらりとすり潰していくくらいなら一番苦しいことを一瞬だけ選べばいいんだと思った。
猫たちは落ち着いていて、戻ってきた私におかえりと言うように寄り添い、いつもの不思議な声でめいめいに鳴いた。
おかえりとだけユークが言った。
骨も肉も、みんな。
体ひとつがあるだけで本当はいつでもどこにでも行くことができた。
あの時、逃げるんじゃなくて自信さえ持っていれば良かったのにと思った。