どこにも行きたくない
旅行と言ったってそう大袈裟なものではないので、支度も簡単だ。
簡単だけれど、支度をするということが好きなので、時間をかけて楽しんでいたい。
持っていく服。
持っていく化粧品。
数種類の薬。
ノート。
ペン。
文庫本。
旅行に持って行く本の内、一冊はいつも同じだ。
村上春樹の「遠い太鼓」
大切なのは分厚いこと。
それから内容をすでに知っているということ。
仕事に使うスーツケースのポケットには必ずこの本を入れていて、時差で眠れない夜「遠い太鼓」は何年もの間ほとんど私の御守りのようだった。
それがミラノでもロンドンでもパリでも、ニューヨークでもシンガポールでも広州でもシドニーでも、どこでだって幾度も繰り返し「遠い太鼓」を読んだし、どのページから読んでも構わなかった。大切なのは、安心していられることだった。
今年はあと二冊を持っていく。
旅先で読みたくなるのは小説よりもエッセイや日記で、そのことに気づいた時、私は本当はもうどこにも行きたくないんじゃないかと思った。
だけど、初めて見る景色の色は、日常と同じかそれ以上の親しみをもってふいに目の前に現れる。