全部ということ
中古のカメラをひとつ買った。
ちゃんと写るのかはわからないけれど、可愛かったので。
外を歩きながらぱしゃりぱしゃりととりあえず何にでもシャッターを切る。ハーフサイズカメラなので27枚撮りのフィルムは倍の54枚撮れることになるらしい。よくわからないけど。
見たものすべてを記憶に残しておこうなんて欲張りかな。
ふとした時に思い出して喉の奥が詰まるような感覚になる。
でも全部望もうとなんて、私は本当にしていたかな。
冬がもうすぐ終わる晴れた日の午後、離れなければ優しくなれないなんてもったいないと思った。
冷たい空気もすぐそこまで来た春も、分けあいたい。
それが、全部ということか。
じいちゃん
じいちゃんが、ぐっと年をとった。
体に悪いところはなく、ご飯もゆっくりとだけれど完食出来るし、会いに行くと「おぉ」と嬉しそうに笑ってくれたりするけれど、でもじいちゃんの生命の光(みたいなもの?)はこのところずいぶん静かになったと思う。悲しいとか寂しいとはまったく別の場所で動く何かがある日ふわりとじいちゃんを連れて行ってしまうんだろう。後悔や未練のない別れなんてこの世界にはひとつもないと思うしじいちゃんと離れるのはとても嫌だけど、でもじいちゃんが生きてきた時間に途中から加わることが出来た私が幸せ者だということだけはよくわかる。
「じいちゃん」
と呼んで手をつなぐと、窓の外を見ながら
「いい天気だな」
と頷く。
もうすぐじいちゃんの誕生日だ。
なんてつまらないことは
少し熱っぽいなと気がついたとたん、体がことんとスイッチを切ってしまう。
眠いの何も考えたくないの眠れないの頭が痛いの。
子どもみたいにぐずりそうだ。
職場でオープン記念にたくさん届いた花を分けてもらい、持ち帰る。
ユークがいくつかのコップやグラスや瓶に花たちをそれぞれ生けなおしてくれた。
エンゾと山椒が嬉しそうに寄っていく。新しいものが、猫たちは好きだ。
「綺麗だね」と言う。
枯れていくのを見たくないなんてつまらないことは言わない。