じいちゃん
じいちゃんが、ぐっと年をとった。
体に悪いところはなく、ご飯もゆっくりとだけれど完食出来るし、会いに行くと「おぉ」と嬉しそうに笑ってくれたりするけれど、でもじいちゃんの生命の光(みたいなもの?)はこのところずいぶん静かになったと思う。悲しいとか寂しいとはまったく別の場所で動く何かがある日ふわりとじいちゃんを連れて行ってしまうんだろう。後悔や未練のない別れなんてこの世界にはひとつもないと思うしじいちゃんと離れるのはとても嫌だけど、でもじいちゃんが生きてきた時間に途中から加わることが出来た私が幸せ者だということだけはよくわかる。
「じいちゃん」
と呼んで手をつなぐと、窓の外を見ながら
「いい天気だな」
と頷く。
もうすぐじいちゃんの誕生日だ。
なんてつまらないことは
少し熱っぽいなと気がついたとたん、体がことんとスイッチを切ってしまう。
眠いの何も考えたくないの眠れないの頭が痛いの。
子どもみたいにぐずりそうだ。
職場でオープン記念にたくさん届いた花を分けてもらい、持ち帰る。
ユークがいくつかのコップやグラスや瓶に花たちをそれぞれ生けなおしてくれた。
エンゾと山椒が嬉しそうに寄っていく。新しいものが、猫たちは好きだ。
「綺麗だね」と言う。
枯れていくのを見たくないなんてつまらないことは言わない。
そしてまたそっと光ったり
「クリスマスマーケット、去年は来なかったね」
とぽつりと言う。風が冷たくて、人の流れが早い。食べ物を売る屋台ばかりが立ち並び、お腹が空いている人には多分ちょうどいいのだろう。温かいワインもソーセージも。
「あれは一昨年?もっと前?」
12月25日の夜に、屋台のほとんどが店じまいを始めた中、その時も早足でここを通りすぎた。
「ココアを飲んだんじゃなかった?」
と首をかしげる。
「お酒じゃなくて?」
「どうだったかな」
どんなコートを着ていたかは思い出せるけれど、手をつないでいたかはわからない。
何一つ忘れたくないと思っていても、こんなにあっさりとこぼれていってしまうのに、忘れたいと思うことは忘れられないこととしていつまでもいつまでもくすぶっている。
それでもいつかはきちんと消えてくれるのだろう。
その時にはもう、消えたことにも気付かないのだろう。
小さなオレンジの明かりがいくつもいくつも灯っては消え、そしてまたそっと光ったりしている。
簡単なこと
山と空と夕方の境目をただじっと見ていると、たとえば10年前の自分が何を考えながら生きていたか思い出せるような気がする。気がするだけだから、実際に具体的な胸に込み上げるような何かをしっかり手にするわけではないけれど、それでもこうして立ち止まれるのはいいことだと思う。
それにしたって、とマフラーの中に顔を埋める。
もう20年ずっと変えずに使っている香水は、私の体にも髪にも着ている服にも(というよりももういっそ私の鼻に?)染み付いていて、その匂いに突然ハッとさせられることも、周りを見回すこともなくなってしまった。
一部なのだ。こういうふうに、もう私の。
ユークはわかっているかな。
人を好きになるというのは、そんなに簡単なことじゃない。