まじろ帖

日々のこと。

水を飲むみたいな

コーヒーを飲まなかった頃、というのは多分大学生くらいの時で、じゃあ一体、途方もなく長い時間があったというのにあの頃、私は何を飲んでいたんだろうと不思議に思う。

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学校の近くに中国茶屋さんがあって、目の前のポットからいくらでもお湯を継ぎ足してよくて、山査子のお菓子とかパイナップルケーキとかをつまみながらずいぶん長いこと女の子たちと居座っていた。

でも、そういうことじゃなくて、もっと日常生活に近い、水を飲むみたいな感覚のこと。

「あぁ、どこかで座ってコーヒーを飲みたい」と思わずに生きていたなんてなんだか変な感じ。

たった

窓から夕方の光がたっぷりと射し込んで「眩しい」と言って笑った。

冬の風が吹く乾いていて眩しい外の世界を、暖かい場所から眺める。

たったそれだけのことだ。

たったそれだけのことだけれど、眺めるという時間も並ぶ距離も許されている。 

それは、贅沢なことだった。

願っても叶わないというのは、想像よりいつもちょっと重くてでも本当は知っていた。

諦める心の準備を。

 

いいものでありたいなんて、とっくにもう思っていない。

願っても叶わない。

 

そしてまたそっと光ったり

「クリスマスマーケット、去年は来なかったね」

とぽつりと言う。風が冷たくて、人の流れが早い。食べ物を売る屋台ばかりが立ち並び、お腹が空いている人には多分ちょうどいいのだろう。温かいワインもソーセージも。

「あれは一昨年?もっと前?」

12月25日の夜に、屋台のほとんどが店じまいを始めた中、その時も早足でここを通りすぎた。

「ココアを飲んだんじゃなかった?」

と首をかしげる。

「お酒じゃなくて?」

「どうだったかな」

どんなコートを着ていたかは思い出せるけれど、手をつないでいたかはわからない。

何一つ忘れたくないと思っていても、こんなにあっさりとこぼれていってしまうのに、忘れたいと思うことは忘れられないこととしていつまでもいつまでもくすぶっている。

それでもいつかはきちんと消えてくれるのだろう。

その時にはもう、消えたことにも気付かないのだろう。


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小さなオレンジの明かりがいくつもいくつも灯っては消え、そしてまたそっと光ったりしている。

簡単なこと

山と空と夕方の境目をただじっと見ていると、たとえば10年前の自分が何を考えながら生きていたか思い出せるような気がする。気がするだけだから、実際に具体的な胸に込み上げるような何かをしっかり手にするわけではないけれど、それでもこうして立ち止まれるのはいいことだと思う。

 それにしたって、とマフラーの中に顔を埋める。

もう20年ずっと変えずに使っている香水は、私の体にも髪にも着ている服にも(というよりももういっそ私の鼻に?)染み付いていて、その匂いに突然ハッとさせられることも、周りを見回すこともなくなってしまった。

 一部なのだ。こういうふうに、もう私の。

ユークはわかっているかな。

人を好きになるというのは、そんなに簡単なことじゃない。

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夕方

ラディッシュをもらったので、ポン酢とバターで炒める。

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魚を焼いてお味噌汁を作り、適当なサイズに切ったトマトにハーブソルトを振ってオリーブオイルを回しかける。

夕方がこうして過ぎていくのは、多分良いことなんだろう。

スープ

冬の朝、食欲がないなぁと思う時、インスタントのスープがあるとやっぱり楽だ。丁寧にたくさん野菜を切って押し麦を入れてコトコト煮て自分で作るスープも美味しいしほっとするけれど、お湯を注ぐだけで温まれるというのは、すごく正しいことのように思う。

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晴れた日は

カサカサと気持ちのいい道を歩く。

冬は、いろんなものがみんなぱりっと乾燥していて気持ちがいい。そのままもっとぱりぱりに砕いて細かい粉みたいにして全部飲み込むとか、もしくは風の強い場所からばーっと撒き散らすとかそういうふうにできたらいい。その二つは全然違うことみたいだけど、どうせ同じ形で留めておけないのなら同じだ。

 

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ベランダに干していたバスタオルが風でばたばたとめくれて盛大にからまってしまったけれど、それでもきっちりと乾いていた。

冬の晴れた日は、これだから好きだ。